おしまい
2021年度新入生歓迎公演のブログは今日で最後となります。公演自体はとっくに終わっているのに、未だにダラダラと続けてしまっている事がどうにも気恥ずかしく、あまり多くのことを書く気にはなれませんね。
役者への講評でもしようかと思ったのですがよくよく考えればTwitterで似たような事をやったので今更感がありますし、特に需要もなさそうなのでやめておきましょう。
そういう訳で、パンフの都合により四分の一にまで削られた「演出の言葉」をここに載せておきます。人によっては痛いと思うかもしれませんが、なんなら自分自身かなり拗らせている自覚はありますが今回の公演のコンセプトと言いますか、何を思って描かれた物語なのかがやんわり書いてあります。
以下演出の言葉
コロナ禍の最中、この物語は生まれました。
とはいえ特に疫病がどうの、自粛がどうのといったメッセージは込められていません。そういった小難しいテーマに手を出すには、まだ自分はそう長く生きては居ませんし、どれほど長く生きたところで薄っぺらな事しか言えないでしょう。しかし、一切関係がないかと言われればそういうわけでもなく……
自分は「好き」という言葉があまり好きではありません。特に誰かが誰かに対して「好きだ」と意思表示することが、昔っから気味が悪くて仕方がありませんでした。いえ、お互いが思い合っているならば別に何か言うつもりもないのですが、「告白」はそうとは限らないですよね。好きでもない人に好きだと言われることも少なからずあります。
そして、それはとても恐ろしいことだと自分は思うのです。だってそうじゃないですか?
別に好きじゃない人から「貴方のことが好きです」と言われたところでその人の事を好きになれるかと言えば別にそうではないし、自分に対して厭らしい視線を向けているのだと思えば寧ろ怖気すら走るかもしれません。
その人の事は別に嫌いではないし、「友達」として今まで仲良くやってきたつもりではあるけどその全てに性的な目的が含まれていたのだと自覚した途端、気持ち悪く感じてしまうのも無理からぬ事では無いでしょうか。
こんな事を言えば、告白した側の人は厚顔無恥にもこう思うでしょう。「自分の思いくらい形にしたい」と気持ちは分からなくは無いですし、時と場合によってはそれが正しい事もあります。相手に伝わらなくても、自分が勝手にする分には自由だと言うわけですね。
しかし、好きだという言葉は一方的なもののようでいて決してそうではないのです。「好きだ」という言葉は「あなたに私を好きになってほしい」という要求に他ならない。そして、この要求を撥ねのける言葉何て一つしかありません。
けれど、その言葉はとても酷い言葉です。だから、誰しも言いたく無い。「好きだ」という言葉は場合によってはそれほど無責任な言葉になり得る。自分にはそれがとても苦しい。
そんな恥知らずな事を言えるほど傲慢になれる恋とは何と恐ろしいものかと、自分は思っているのです。と同時にその傲慢さに憧憬を覚えずにはいられない。
とまれ、結局のところ人と触れ合うことは酷く気持ちの良い事だけれども、とても恐ろしい事で、本来なら勇気のいる事だというのを忘れないで欲しいのです。
人と触れ合う。
すごく快いものです。
とてもとても気持ちの悪い事です。
ひどく恐ろしい事です。
けれど、その価値と醜悪さを再確認してほしい。
これはそういう話です。
いやはや気持ちの悪い文章ですなあ。